前田慶次とはいかなる人物か

前田慶次は戦国武将の中でもかなりの人気を誇っている

前田慶次というと隆慶一郎の歴史小説「一夢庵風流記」そしてそれを原作とする原哲夫の漫画「花の慶次」の影響もあって、戦国武将の中でもかなりの人気を誇っています。

しかし史実を元にしているとしても、そこで描かれているのはフィクションであり、実際の人物とは異なる部分もあります。

前田慶次とはいかなる人物であったのかというと、その生まれは前田家ではなく滝川一益を輩出した滝川一族の出です。

実父については滝川益氏あるいは滝川益重と異なる説があり、誰かのかは明確にわかっていません。

また生まれた年についても天文元年(1532年)から天文10年(1541年まで)とこれも正確な日付がわかりません。

出身の一族と戦国時代に生まれたと言われている

いずれにしても出身の一族と戦国時代に生まれたということは間違いなく言えるでしょう。

それが尾張国荒子城主であった前田利春の長子であった前田利久が家督を継承し前田家の当主となり、後嗣がいないことから妻の実家である滝川一族から慶次を養子に迎えました。

このとき慶次は利益という名前を与えられました。

しかし、永禄12年(1569年)に利久は病弱であり、慶次も実子ではないということで織田信長は利久の弟であり戦で目覚ましい活躍をしていた利家に家督を譲るようにと命じたのです。

これは前田家の渦中でも反対意見がありましたが、利久の隠居(追放とも言われている)によって実行されました。

利家に前田家を奪われた利久は、放浪生活を送ることになり慶次はそれに付き従いました。

このときに都の公家などと交流を持ったと言われています。

やがて利家のほうは、秀吉の家臣として順調に出世をしていき、能登の大名となりました。

そのころになると放浪生活に終止符を打ち、慶次は叔父である前田利家の家臣として戻りました。

やがて天下人である織田信長が本能寺で討たれ、その後秀吉は明智光秀そして織田家の宿老である柴田勝家と対決をしていきます。

そこでも前田家は秀吉のもとで活躍することになります。

慶次は佐々成政や神保氏との戦いで、巧みな戦術で撃退し、その名を知らしめた

慶次自身は佐々成政や神保氏との戦いの中で、巧みな戦術を持ってこれを撃退し、その名を天下に知らしめてたのですが、天正15年(1587年)に利久が亡くなりその所領を慶次の嫡男である前田正虎が受け継ぐことになりました。

その後秀吉の小田原攻めを経て天下は豊臣家のものとなっていく中で、慶次と利家の関係が冷え込んでいきます。

そして慶次は前田家を出奔するのですが、その理由は利家との不仲が原因ではないかという説があります。

再び、放浪することになった慶次は何をしていたのかというと、再び京都で文化人や上杉家の家臣である直江兼続たちと交流を重ねていました。

名のある武将である慶次に対して、仕官をしないかと誘う大名もいましたがそれにも答えません。

その時期には出家をして「穀蔵院飄戸斎(こくぞういんひょっとさい)」という名前を使っていました。

慶長3年から5年ごろの間に上杉景勝に仕官することになる

仕官をすることになり、それは浪人時代に親しくなった直江兼続に誘われたからとも言われています。

慶次は上杉下に仕えることになった浪人たち組外集の筆頭として1000石の知行を得ました。

ちょうど仕官をした頃に関ヶ原が起きて、上杉家は西軍に与することになりました慶次は有名な撤退戦をすることになった長谷堂城の戦いにも参加をして、撤退の際には殿を努めて奮戦をしました。

上杉家はなんとか助かったものの、関ヶ原における石田三成ら西軍の敗北により会津120万石から米沢30万石へと厳封されることになりました。

慶次はそれに従い、米沢で静かに暮らすことになったのです。

ただその頃の慶次については詳しい記録が残っていないので、どのような生活を送っていたのかはわかりません。

米沢では「無苦庵」と呼ばれる庵に住んでいたとされていますが、現在はそれらしい跡が発見されているだけです。

慶長17年(1612年)に慶次は亡くなったと言われている

関ヶ原の戦いから12年後の慶長17年(1612年)に慶次は亡くなったとい言われています。

死後は現在の米沢市堂森にある善光寺に供養塔があり、近年は慶次がなくなったという6月4日に供養祭が行われています。

このような人生を送った前田慶次ですが、世間では傾奇者というイメージが定着のですが、それは形式が求められる儀式で素襖という直垂に入れる家紋をケシ粒ほどの虱の紋にしていたり、騎馬の行列に牛に乗って登場したりと破天荒なエピソードが山のようにあるからです。

それは天下人である織田信長が無理矢理に義父利久から前田家の家督を奪ってしまったということに対する怒りがあるのではないか、というのが一般的な見方です。

利久の家督がそのままであれば、後継者である前田慶次は江戸時代になっても大名となっていた可能性もありますから、それは仕方のないことと言えます。

そのような人物を新井白石は「藩幹譜」において勇士であると評価しており、現在まで愛されることになりました。

最終更新日 2025年5月20日